それは、私が初めての一人暮らしをしていた、築30年の古いアパートでの出来事でした。そのアパートのキッチンには、壁に直接取り付けられた、旧式のプロペラ式換気扇がありました。ある夏の夜、夕食の準備を終え、換気扇を止めてリビングでくつろいでいた時のことです。キッチンの方から、「カサカサ…パタッ」という、何か小さなものが落ちるような、不審な物音が聞こえてきました。最初は気のせいかと思いましたが、その後も、断続的に同じ音が聞こえてきます。私は恐る恐る、息を殺してキッチンへ向かいました。そして、コンロの上に、信じられないものを見つけてしまったのです。黒光りする、一匹のゴキブリ。それは、明らかに、真上にある換気扇から落ちてきたものでした。私は声にならない悲鳴を上げ、その場で凍りついてしまいました。換気扇が、外と繋がっている。その当たり前の事実が、突如として、耐え難い恐怖となって私に襲いかかってきたのです。その日から、私は換気扇を回すのが怖くなりました。料理をするたびに、換気扇の奥の暗闇から、奴らがこちらを窺っているような気がして、生きた心地がしませんでした。しかし、換気扇を使わなければ、部屋に匂いがこもってしまいます。意を決した私は、ドラッグストアで換気扇用のフィルターを買い込み、脚立に乗って、震える手でそれを取り付けました。フィルターで物理的に蓋をしたことで、ようやく少しだけ、心の平穏を取り戻すことができました。しかし、あの「上から降ってくる」という恐怖体験は、私の脳裏に深く刻み込まれました。そして、換気扇という存在が、家の外壁に開けられた、無防備な「穴」であることを、身をもって学んだのです。以来、私が引っ越しをする際には、必ず、換気扇のタイプと、その防虫対策がどうなっているかを、内見の際に真っ先にチェックするようになったことは言うまでもありません。