それは記録的な猛暑が続いていたある八月の深夜のことでした。喉が渇いてキッチンへ向かった私は、冷蔵庫の明かりを頼りに水を飲もうとした瞬間、足元のフローリングを素早く横切る黒っぽい影を目にしました。その時、私の脳裏に真っ先に浮かんだのは、あの忌まわしいゴキブリの姿でした。心臓が跳ね上がり、全身の毛穴が開くような緊張感の中で、私はすぐさまリビングの照明を全開にし、手に持っていた丸めた雑誌を武器に構えました。視線の先にいたのは、体長が三センチほどある、全体的に黒くてツヤのある細長い虫でした。一見するとゴキブリのようにも見えましたが、何かが違います。よく観察すると、その虫はゴキブリのように平べったくなく、むしろ少し丸みを帯びた細長い体型をしており、何よりも動きがゴキブリほど狡猾ではありませんでした。ゴキブリであれば、人間の気配を感じた瞬間に死角へと逃げ込みますが、その虫は戸惑うように壁際で立ち止まっていました。私は意を決して殺虫剤を手に取りましたが、噴射する直前にその虫の「触角」が目に入りました。それは非常に長く、立派なクワガタのメスか何かのように見えたのです。結局、私は殺生を思いとどまり、透明なプラスチックの容器を被せて捕獲しました。翌朝、明るい場所で調べてみると、その正体はキマワリというゴミムシダマシ科の昆虫、あるいはそれに近い種類の甲虫であることが分かりました。彼らは森の朽ち木などを食べて生きる、人間には全く無害な生き物です。おそらく、ベランダに置いていた観葉植物や、開け放していた網戸の隙間から、夜の明かりに惹かれて迷い込んできたのでしょう。この体験を通じて私が学んだのは、ゴキブリに似た虫で細長いものを見つけた際、パニックになって即座に殺してしまうことの危うさです。もしあの時、冷静さを欠いてスプレーを撒き散らしていたら、私は何の罪もない自然界の掃除屋を殺し、キッチンを薬品で汚していたことになります。それ以来、私は家の中で不審な虫に出会っても、まずはそのフォルムを観察する心の余裕を持つようになりました。ゴキブリに似た虫の中には、益虫として扱われるものさえいます。特に細長い形状をした甲虫類は、私たちの想像以上に多様で、それぞれが豊かな自然の物語を背負っています。あの夜の訪問者は、私に昆虫への理解と、一歩引いて状況を判断することの大切さを教えてくれたのです。